ブクマとコミュニティと

ついったをはじめたのだけれど、ブクマについて考えてたらおもしろくなったので、転載しつつ補完する。

ヤフーだかどこだったか、なんかのトピックスに投票するところで、投票してから結果を見る、というのがあった。あれ、面白いと思う。投票する前にどういう状況かがわかると、人は異なる振る舞いをする。投票に、新しい意味を込めることができる。大学で、投票行動においては世論のバランスを取ろうとする人がいるということを聞いた気がする。バランスを取ろうとする人が、一定以上いる場合どうなんだろう。ある種、投票前に投票結果を見ながら調整するという、変わった行為が大きく入り込む場合。
投票じゃなくても同じだ。ブックマークサービスでは、ブックマークする前にその状況を見ることもできる。しかも一覧ページがあるのだから、わかりやすい。こういうときの人の振る舞いは、事前にブックマーク状況を見られなかったときと異なるだろうか。
ブックマークサービスは、投票的に使うこともできるし、元記事へのコメント的に使うこともできる。とくに何が正しいということはない。ただ、名称からわかるように、大義名分としてはブックマークがある。大義名分があるっていうのも興味深くて。どちらにせよ、ブックマークのランキングがわかりやすい場所にあれば、投票的に使う人が使いやすい形にはなるだろうし、一覧で見られる部分が便利になれば、コミュニケーション的に使うのには便利になる。個々人の好き勝手な行動の総和としての全体ブクマではなくて、全体ブクマからフィードバックされる個々人の行動というのが生まれてくる。そうすると、また違う振る舞いを見せてくるだろう。
自分の備忘録に使うだけなら、他人がつけたブックマークについて、気にする必要はない。ただ、他人の行動は参考にはなるし、その数がある種の情報になることも確か。ただし、この副産物がメインになってくると、そこからまた新しいフェーズになる。ブクマ一覧ページ、ブクマランキングページのアクセシビリティが非常に悪くなったら、また集団としての性質は変わるだろう。たぶん、人が減る。単なるオンラインブックマークになる。
集団の振る舞いが見られるということが、自分にとってのネットの楽しみの一つ。楽しみは三つあって、残りは視点が得られることがあるということと、自分と向き合えるということ。なんだか非コミュな楽しみ方だな。
コミュニティって、コミュニケーションと同根?だけあって、その中心にコミュニケーションがある。メッセージの交換。実は、交換がメインであって、メッセージは必須ではない。交換するためにメッセージみたいなものがあったほうがいいだけで、だから「いまなにしてる?」。交換に機能が特化されたコミュニティは、賑わいを増していくけれど、交換というのはとくにどこかの方向を向いているわけではないから、エネルギーはあるけれど取り出しにくいかも。何かの理想があって、コミュニティをその手段、というか従属物に見ている人にとっては、交換が熱さを増していくことはうれしいようでいて、歯がゆいのだと思う。
自分のブクマは、割と未来の自分向けに書く。気持ち的には、「今の自分にはここまでの理解が限界。未来の自分よなんとかしてくれ」的な。なので、1年後とかに自分のブクマを読み返すのは楽しい。当時の自分が精一杯投げたボールの群は、あとから俯瞰で見るとある種の弧を描いていたりする。その、ただ無目的に精一杯投げたボールの群が、誰かの役に立ったりするとそれも楽しい。でも、誰かの役に立つために書くというのはまた違うこと。・・・というのが、今の自分の集合知の理解。これも、1年後に読み返されるボールの群のひとつになるだろうか?うーん、ツイッタ読み返すかなあ。逆向きに読んでいくのは面倒かも。
実際に誰かが見ていなくても、「見られているかも」と思うことで、人の振る舞いはやはり変わる。ネットも10年以上たって、それなりに炎上の歴史もできてきた。「見られているかも」は、人を穏健にする可能性もあるし、逆に過激なことを言わせる圧力になることもある。空気。

・・・とここまで転載した。長い!微妙にブツブツ切れた文章ではあるけど、それなりに行間があってそれはそれでひとつの味かも。自分に関して言えば、誰かを想定してブクマしたりコメントしたりすることはほとんどない。純粋に自分のためだから、コミュニケーションが入り込むと後利用しにくいというのがひとつ。それと、「自分のため」という純粋さこそが、結果として他人を助けるのだという信念があることがひとつ。その信念でいうと、ブクマサービスはもっとみんなをバラバラにしていく進化というのもあると思うのだけれど、濃くなるコミュニティみたいな方向性も何かを生む可能性があるので、べき論としてはなんとも言えない。