時間軸ドーン!

本日は時間軸をドーンと広げて考えるのであります。はい。もちろん「にっき」なので結論不在。

そういえば昔ロボットができたら人の仕事がなくなるというのがあったね

結果として何が起こっただろうか。人の仕事はなくなったのかな。厳密な検証は難しいだろうけど、ある程度はなくしたのかもしれないな。でもその「なくした」は後から振り返ってみているだけであって、ロボットがいたらいたで、それ前提の仕事がどんどんできただけな気がするけど。あ、さらに遡ると、分業というのが本格化した時点というのも、何かの境目だったと思うんだな。さて、インターネットは人の仕事をなくすのかな。仮説で言うと、インターネットやらロボットが普及する過程においてはそのギャップにおいて何かを減らしたり増やしたりするのだろうけど、それらがインフラになった瞬間に、それを前提とした世界が再構築されて、仕事は増えだすと思うんだよね。ある人口がいるときに、消費が固定で、生産(労働)が進化すると生産(労働)が余るというのは確かだと思うけど、消費が固定されることはないと思うんだ。縄文時代と、江戸時代と、現代では消費の質も量も違うと思うし。

そういえば昔、誰かがアウラがどうとか言っていたね

印刷術とかで複製ができてしまうと、アウラがなくなってしまうという話だったか。ここでは創作時のアウラ、おそらくは時間・空間的一回性が失われてしまうという話だったはず。いまはデジタルデータでコピーができちゃう時代だけど、こんどは紙とかCDとかいう有限の物理的存在のレベルを離れたわけだ。いまのところはビジネススキームに落ちないから著作権とか問題になっているけど、それは単にメディア経由メソッドの終わりだから、違うメソッドで回収をすればいいんじゃないのという気がする、難しいけど。次に行き着くのは、コンピュータか何かが元の作品やら文章やらを動的に引用して再編集しまくってしまうものだから、もはや原型がわからなくなってしまってどうなるのとか、そういう時代なのかな。あるいは、自分が書いたある日のブログをGoogleが似たようなことが書いてあるテンプレート(あるいは有力ブログ)に勝手に統合してしまって、「いや、俺の発見はそれとは意味が同じでも、意味合いは違うんだ!」とラッダイト運動が起きるとか。そのうち、「オリジナルなんてものはない」ということが理屈レベルではなく、本当の意味で体感される時代になるのかもしれないな。でも、ひとは一回性にも意味を見出しつつ、その世界の中を普通に生きるんだろう。

幸せとか、価値とかは相対的なものだけれどどうだろう

もし幸せや価値が測れるものだったとしたら、西暦500年でも1000年でも2007年でも幸せの意味は変わらないだろうな。2007年における本は数千円の価値しかなくて、1007年では比べ物にならない価値を持つだろうけど、そういう比較は意味がないよね。価値は、その時代に生きた人の中でしか生きていないものだし。2007年の人が1007年の状態を元に幸せを実感できるかというと無理だよね。そういう意味では、物理的に何がどう進化しようと、幸せの総量というか、それは変わらないんだろうな。その社会の中で、相対的に幸せやら価値やらは決まるのだとするとね。あ、絶対的なものがあった、宗教だ。宗教っておもしろい。

一番怖いのは想像力の枯渇だよね

人は環境が限られているほど想像を膨らますもので、膨らませた想像と現実のギャップにストレスを感じるし、それを埋めることに喜びを見出す。つまり運動していることに喜びがあるんだと思うんだけれど、行き先としての想像力がなくなることが一番怖いね。