猫の死体はどのくらいあるか

ちょっと最近プライベートでいろいろ相談ごとを受けたりするんだけど、人って簡単に判断を誤ったり、心が傾いて弱者的な立場に陥ってしまうものじゃないかなとつくづく感じる。本当に真っ当だと感じる人でも、ちょっとしたトラブルで、疲れて間違ったりしてしまうことがある。ネット上や、マスコミではマトモな意見がマトモな判断で書かれることが多くて、そんなに目に付かないけど。もちろん電波な意見や、心を病んだ人の意見もネット上なら比較的よく見るわけだけど、それも、なんというか過去を振り返っている記述が多くて、その場その瞬間にある人が目に付くところに出てくることは少ない。でも、それって猫の死体みたいなもので、ないんじゃなくて目に付かないだけだろう。
最近、自分がマジョリティだと思っているものは実はマジョリティではないのではないか、そう思えて仕方がない。マジョリティでないものは、構造的に隠蔽される傾向にある。これは誰かの意図が働いているというのではなく、自然とそうなってしまうのだろう。「人は見たいものを見、信じたいことを信じる」わけだけれど、その傾向もあいまって、見えないものはないことにしてしまうのかもしれない。
広告に携わる身としてつくづく感じることは、世界は誤解で周り、偏見で動き、妄想で塗りたくられている、病んだものだということだ。それを「かわいいやつめ」と言っていったん抱きしめる覚悟があるかどうか。実際、それが人間を豊かにしているのだと自分は思っているし、そのことをバカにできるほど、猫の死体は少なくないと思う。そして、どうせエラーが発生するなら、よりよいエラーを、楽しいエラーを。それが、私の考える広告(の一部)なのだが、大きい声で言うと嫌われるとは思う。

でも、なんというか、自己責任とかリテラシーとか自分の意志とかいうのは、ある瞬間にのみ立ち現れるものであって、たぶんそれを永続的に保証できるひとはどこにもいないのだろう。