苦手だけど好き、そんな統計と確率の本
「確率的発想法」という本が積ん読になっていたので消化。気になったところを抜き出し。この本おもしろいです。わかりやすいし。
- 作者: 小島寛之
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2004/02/29
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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医者が患者に、「あなたの手術は90%成功しますが、10%の確率で失敗して、死ぬ可能性があります」といったとします。(中略)しかし、この確率を受け入れる患者の側ではこの数値はまったく別次元のものとなるはずです。なぜなら、患者にとって自分は一人しかおらず、手術が成功するか失敗して死んでしまうか、その二つに一つだからです。
わかる。わかるな、その感覚。どっちの立場もわかる。提案する側としては、そう言うしかない。受ける側としては、極論「よそはいい、おれはどうなんだ!」と言いたくなるその気持ち。
原発の是非の問題について、「これだけ電気を享受する生活をしておきながら、原発反対などというのはけしからん」といった考えを表明する人をよく見受けます。(中略)繰り返しになりますが、経済学者の立場からいうと、「たくさん使うのは、安いからであって、必ずしも必要だからというわけではない」のです。
「必要」ってなんなのか。このあたりは微妙な気持ちになる。必要っていう概念は、所与のものではない、更新されていく概念なのかも。
株式市場では、「投資家の意見の一致」というのは非常に危険です。「買い」で一致するとバブルが起こり、「売り」で一致すると暴落が起こるからです。
みんなが同じ情報を見ていないほうがいいよね、とも思う。
彼らが論証したのは、「偏見が差別を生むのではなく、差別が偏見を生むのだ」ということでした。(中略)そしてその「空想」が経験からは否定されないことから、それを信じ切ってしまうのです。
こういう因果の逆転みたいな話が個人的に好きだ。
同時双方向の意思疎通というのは、こういう無限の連鎖を内包していて、共有知識を生み出す源になっているわけです。
「こういう」は、「相手が○○を知っていることを自分が知っている、のを相手が知っていて・・」みたいなこと。ネット社会は非同期コミュニケーションだけど、相手が何を知っているか、相手が自分の何を知っているかはわからない。そういう手探り感と、わかんないけどまあいいやみたいな適当さがある。
あと、この本、目次の記述がかっこよかったりする。一部抜き出す。
- ぼくがそれを知っていると、君は知らない
- 経験から学び、経験にだまされる
- そうであったかもしれない世界
ふるえが来るほどかっこいい。