不便や不足が想像力を生むよという自由

友人宅で久しぶりに「めぞん一刻」を読む。うう切ない。こういう生活にあこがれる。
冷静に考えると、こんなロマンチックな話もなかなかない。少なくとも私の周りはまったくもってロマンチックじゃない。合コンに出て、気になる子からメールが来て、西麻布で飯でも食って、メールでさらに腹の探り合いして、なんかこっちから手を出したらアウトで既成事実化してなんか付き合ってその後も互いに束縛するというなんとも夢のない話になる。まあそれはいいんだが・・・
このロマンチックさを生み出しているのは「すれ違い」とか「誤解」で、人格的なベースには率直さみたいなものがある。翻って自分の周りを見るに、誤解とかすれ違いをするほど道具が不便じゃないし(ケータイもメールもあるし)、みんなこんなに無邪気じゃなくて擦れてる。この甘酸っぱい感じが現代に再現されてるのは一部の読み物やエロゲくらいじゃなかろうか。そういうものを提供し続ける限り、そして道具が便利になって「すれ違い」や「誤解」を減らし続けて人々をすれた存在にし続ける限りこういうものの需要は廃れないだろうな。
もし、いまから、人工的にすれ違いや誤解を生み出すような(つまり、想像の余地を広げるために何かをわざと制限するような)ツールやらサービスが生まれたらみんな使うだろうか。使わないだろうな。でも、不足があるから人は創造を働かせるのだし、それがひとつの(ヒトの)自由なのだというのは確かで、アイデア開発とかもそうだし、8ビットのファミコンに想像力が広がるということでもある。時間は元には戻せないけど、なんかこういうのうまくいかないんだろうか。