さようなら、内臓見せるな型保守主義

人間の内臓見るとぎょっとする。女性の裸には興奮するのに内臓にはぎょっとする。薄皮一枚隔ててすごい差だと思う。
で思うのだが、内蔵見せるなよというのはいまやひとつの保守主義になってる気がした。で私は保守主義者、と。

いや下世話な話ですけど、「女はおしとやかにしろ」みたいな規範は実は内臓を見せない知恵みたいなものだったと思うわけですよ。女性は怒ると思うのですが。男は力強くあれ、泣くな、みたいなのも同じ。事実から導かれた処世訓じゃなくて、事実(=内臓)は見せるな、っているある種の「粋(いき)」だった思うのですね。そんな粋はもう見る影もなくて、ものめずらしい内臓がいまやさらされまくってしまっていますが。

でここら辺にはひとつのパラダイムシフトがある気がしていて、見えそで見えない「粋」を楽しむ時代はとっくに終わってしまっていて、内臓見えまくってる中でどうするかという時代なのではないかと強く感じる。これは個々人のプライベートにも言えることかもしれない。id:essa氏がそんな議論をしていたような。一緒くたにするのは氏にとって迷惑な話だとは思うけれど。

イデオロギー」対「反イデオロギー」の時代が静かに終わって(日常レベルで)、学校では「反体制」が減って「脱体制」になり、ヤンキー(反体制)が減ってチーマー(脱体制=ノールール)が増えたというのが90年初頭くらいにあったけど、内臓見せるな型保守主義が静かに死んでいく中で「内臓見せるべき」⇔「内臓見せないべき」なフレームも相対化されていくのか。


なんとも雑なまとめだ。